昭和42年04月12日  朝の御理解



 「神徳を得よ人徳を受けよ」と金光様教えておられます。神徳を得よ人徳を受けよと。私はいつも神徳を受けると、いわゆる神様のご信用を受けるという事について、いつも焦点を置いて、皆さんにお話聞いて貰うんです。「してもこの世は徳の船に乗って渡れ」とこう久留米の初代は云うて居られたそうでございますが、確か、御神徳を受けなければ、得なければ、人間は本当の安心の生活できないと思うんです。
 と同時に人徳を得ていくという事、これには矢張り努力がいるという事ですね。神徳は私共がただ神様のご信用を得らして頂くための、受けさせて頂くための受け物を作っていけば、神様が下さるものなんです。人徳は只その受け物を作るというだけではなくて、そこに様々なある場合においては、人間心というですかね、最高の人間心を使うてそれに向かって努力しなければならない、という訳でございますが。
 神徳を受けていく、人徳を得ていくというよく申します事ですけれども、自分というものを中心にしたんでは、私は人徳は得られないと思う。もういつも自分が中心。自分の思う様にならなければ気に済まん。自分の思う様に人を動かそうとする。ね、これでは人徳は得られない。私は人徳はどこまでも自分中心ではなくてです、ね、その人その人のその相手相手の私は心になって行く事だとこう思う。
 自分中心ではなくて、自分の相手中心だと。例えば商売人が申します様に、そのお客様本意だと云った様な事を申しますね。いわゆるお客様本意だ、「えぇと、あなたのご都合はどうでしょうか」こういう生き方なんです。「私はこういう都合だからこうして下さい」と云うのではなくてです、先ずあなたの都合から私は判る事だと思う。その、あなたのご都合から、私がそれについて動くと云う様な、在りかた。
 または、相手の心になってと。成る程な相手の心になってみりゃそうもあろうという事なんです。まあどうした判らん人じゃろうかと云う様な場合でもです、相手の心になってみればです、無理からぬ事が多いのでございます。ね、ですからここんところをですね、お互い一つおかげを蒙っていかなければならんと。いわゆる相手の心を心として、自分がそれについて回ると云う様な、いわゆるあなたのご都合という事になる。
 あなたのご都合と、あなたの都合はどうでしょうかと。そう云う様なありかたから、人徳は得る事が出来るんだと、こう思います。そこから矢張り自分自身を犠牲にしなければならない場合もございます。本当に自分の思いというものを捨ててしまわなければ出来ない事もございます。もう本当にですね。家の中でも、自分の思うごとしなければ出来んという人が、せな気にいらんという人があるともう。
 もうその人の気持ちにちょっと外れたらその人がプリプリする、腹かくもうどうにも出来ないです。今日、私は特にこの「神徳を得よ、人徳を受けよ」と仰有る、今日は愈々、人徳を受けさして頂く為のありかた、相手の気持ちになってというありかた、あなたのご都合はという生き方、今日は私、それであの進んで行きたい。今日一日をおかげ蒙って行きたいという風に、私は今日は思いました。ね、どんな結果が出るか。
 皆さんそのそう云うところに焦点をおいて、今日一日の信心生活を、おかげ蒙って行きたいとこう思うのです。どのくらい、人が助かるか、どのくらい人が喜ぶか、どのくらい、いわば自分の家の中が、世の中がスムーズに行くか、そういう私は体験が得られるなら、有り難い事である。ね、そうして、なら結局はどう云う事になるかというとです。場合には、「打ち向かうものには、負けて時節にまかせ。」なければならん事もございましょう。「馬鹿と阿呆で道を開け。」
 と仰有る、本当に馬鹿と、阿呆にならなければならない事もございましょう。それでいて、みんなの信用がついて来る、それでいて、みんなから中心に押し出されており、上え上えと押し上げられておる。それが私は人徳だと、こう思うのです。人徳というものは得るものではありません。がむしゃらに、こう変動して行く様なもんじゃありません。どこまでも、人徳を頂くために、人徳を受けるために。そう云う様な、私は精進、いわゆる我情を捨てた生き方なんです。
 いわゆるあなた中心、ね、商売人で云うなら、お客様本意の店が、矢張り繁盛のおかげ頂きます様に、ね、私共は、その自分の相手になる人の気持ちになって。相手の心を尊重して行くところの生き方。そこから、私は人徳が得られるとこう思うのです。神徳を受け、ね、人徳を得て行くところのおかげを蒙らなければ、本当に、その神徳、人徳が相まって行くありかたにならなければ、人間の本当の幸せというのは無いのではなかろうかとこう思うのです。
   どうぞ。